出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 広義には、宗教問題が重要な理由となって起こった戦争全般について用いられるが、本来の意味では、宗教改革を契機として起こった新旧両派間の一連の戦争をさす。したがって、12世紀末から13世紀の初めにかけて行われたアルビジョア十字軍、フスの処刑後ローマ教皇の要請によって神聖ローマ皇帝の派遣した十字軍とボヘミアのフス派との間のフス戦争(1419~36)も、広い意味では宗教戦争に含まれる。宗教改革時代でも、ジッキンゲンを指導者としてドイツの騎士たちがトリール大司教を攻撃して起こった騎士戦争(1522)、ドイツ農民戦争(1524~25)が宗教戦争に入れられるときには、この広義においてである。, それに対して、本来の意味での宗教戦争に含まれるのは、ツウィングリの宗教改革運動に伴うスイスでの新旧諸州間のカッペルの戦い(1529.31)、皇帝派と新教派諸侯・帝国都市との間のシュマルカルデン戦争(1546~47)、フランスのユグノー戦争(1562~98)、カルバン派のジュネーブとサボア公国との戦争(1589~93)、オランダ独立戦争(1572~1648)、そして三十年戦争(1618~48)である。カッペルの戦い、シュマルカルデン戦争が狭義での宗教戦争に含まれるのに対して、同じ宗教改革時代の騎士戦争、ドイツ農民戦争がそれに含まれない理由は、あまり明瞭(めいりょう)ではない。後二者は、宗教改革が契機となって起こってはいるが、本来は身分間、階級間の対立から起こった戦乱であるという説明も可能であり、そういう見方により狭義の宗教戦争から除外する慣行が踏襲されているだけのことである。他方、それらに宗教的要因のあることを重視する学説もあり、一概には論じられない。, 狭義での宗教戦争とされる諸戦争も、宗教的対立だけから起こったのではない。カッペルの戦いも、チューリヒの勢力拡張政策に対する旧教諸州の戦いという一面をもっていた。シュマルカルデン戦争は皇帝カール5世の新教抑圧政策から起こったが、新教派諸侯が新教の立場を守り抜こうとした理由には、宗教改革によって確立した領内の教会支配体制と没収修道院財産を手放すまいとしたことがあった。しかも、新教派のザクセン公モーリッツが政治的野心から皇帝派について新教派を敗戦に導いたこと、新教派のシュマルカルデン同盟が旧教派のフランスに援助を求めて働きかけていたことも見逃してはならない事実である。ユグノー戦争も、旧教派のギーズ公、新教派のブルボン家をそれぞれの党派の指導者とする貴族層の政権争いという一面をもち、それが内乱を長期化させた最大の理由であった。この内乱は、ブルボン家のアンリ4世が王位についたあと、自らは旧教に改宗するとともに、ナントの王令(1598)を発布して新教徒に信仰の自由を認めたことで終息したが、ユグノー戦争の末期にはスペインのフェリペ2世がフランスの旧教派に援軍を送っていた。スペインは旧教派の牙城(がじょう)をもって任じ、反動宗教改革攻勢の拠点となっていただけでなく、当時スペインから独立しようとする新教派のオランダと戦っていたところから、ユグノー戦争にも介入して旧教派を援助したのであった。, このころから、宗教的対立には絶えず外国勢力の政治的利害が絡み、宗教戦争は外国の介入を交えることになる。ジュネーブとサボア公国との戦争でも、新教派のスイス都市ベルンがジュネーブを援助したほか、ジュネーブがサボア領になることを好まない旧教国フランスが援助を行い、一方スペインはサボアに援軍を送った。このジュネーブとサボアとの戦争は、全ヨーロッパ的視野においてみるとフランスとスペインの対立を基軸として戦われた代理戦争的な色彩が濃厚であったといえる。, オランダ独立戦争は、スペイン領であったネーデルラントでの新教派弾圧に端を発したが、スペインの強圧政策、重税賦課、軍隊の略奪暴行が住民の反抗をよび、ネーデルラント17州全体の独立運動へと発展したものであった。その独立運動でもっとも戦闘的であったのはカルバン派の人々であったが、新教派はネーデルラント全住民のなかでは少数派であり、したがってこの独立戦争は宗教戦争という概念だけで割り切れるものではない。また、この戦争でも、新教国のイギリスと旧教国のフランスがネーデルラントを援助したが、それは、イギリスが植民地貿易でスペインと抗争し、フランスがハプスブルク家と対立関係にあったという事情によるものである。この独立戦争では、旧教派住民が圧倒的に多かった南部10州が中途で脱落し、北部7州だけが最後まで戦い抜いて、1648年のウェストファリア条約で独立を承認されるが、その最終局面では三十年戦争と連動して戦いが進められた。, 三十年戦争も、オーストリア・ハプスブルク家のボヘミアでの反動宗教改革攻勢、新教派弾圧が発端となり、ボヘミア議会が新教派のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を国王に選んだこと、ドイツ全土でも新教派諸侯と旧教派の皇帝・諸侯との対立が激化していたことのために、ドイツ全体に波及したが、その戦争を長期化させたものは外国勢力の介入である。すでにボヘミアの内乱の局面で皇帝はスペインに援助の交渉を行い、オランダとの戦争を続行していたスペインは応諾して、ライン左岸のプファルツ選帝侯領を占領し、イタリアからネーデルラントへの軍隊輸送路を確保したが、外国勢力の本格的な介入は、デンマーク王クリスティアン4世の参戦(1625)に始まる。しかもクリスティアンはイギリスとオランダから援助を受けていた。クリスティアンの参戦はドイツの新教徒擁護を名目としたが、ドイツ北部に対する領土的野心からであり、イギリス、オランダがそれに援助を与えたのは、スペインの弱体化に目的があってのことである。デンマーク軍は皇帝とドイツの旧教派諸侯軍に敗れて、クリスティアンはその野心を放棄しなければならなかったが、同じくドイツ北部に領土的野心をもつスウェーデン王グスタフ・アドルフがフランスの援助を受けて、新教徒擁護を口実に1630年から参戦した。旧教国フランスのスウェーデン援助は、フランスを間に挟むスペイン、オーストリア両ハプスブルク家の弱体化のためであり、グスタフの戦死(1632)のあと、スペインの援助を受けて皇帝軍が優勢となってからは、フランスはスウェーデン、新教派諸侯の黒幕としての立場を捨てて、公然と参戦する。外国の新教派に対するフランスの援助はジュネーブとサボアとの戦争以後ほとんどつねに行われてきたことであるが、ここにきて参戦の形をとったのであり、ウェストファリア条約でライン川左岸に領土を獲得し、オランダの独立が承認されてスペインが衰運に向かい、またドイツでは皇帝の地位が低下したことにより、その目的は十分に遂げられた。, 以上のように、宗教戦争は新旧両派の対立から起こってはいるが、宗教問題だけから起こったのではなく、とくにユグノー戦争以後はフランス対スペイン・オーストリア両ハプスブルク家の対立を基軸とする国際的な政治利害が絡んで、外国の介入を招き、さらには国際戦争に発展した。しかし三十年戦争を最後に、ヨーロッパでは宗教的対立による大規模な内乱や紛争、外国勢力によるそれへの介入はなくなる。三十年戦争が最後の宗教戦争といわれる理由である。, 『G・R・エルトン著、越智武臣訳『宗教改革の時代』(1973・みすず書房)』▽『G・リヴェ著、二宮宏之・関根素子訳『宗教戦争』(白水社・文庫クセジュ)』▽『中村賢二郎著「三十年戦争」(『世界の戦史5』所収・1966・人物往来社)』, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …[歴史] ヨーロッパにおいて政教分離は一回的できごとではなく,歴史過程のなかで徐々に進行したが,巨視的に見れば三つの画期を指摘することができる。聖職叙任権闘争,宗教戦争,およびフランス革命である。 中世世界においては,国家と宗教(キリスト教)の区別は未知の事柄であった。…, …1562年より98年にかけてフランスに起こったカトリック派とプロテスタント派の武力抗争。当時フランスのカルバン派は,カトリックからユグノーと呼ばれていたことから,日本ではこの内乱を〈ユグノー戦争〉と呼びならわしているが,ヨーロッパの歴史学は〈宗教戦争guerres de Religion(フランス語),Religious Wars(英語)〉と呼ぶのが通例である。ネーデルラントの〈乞食団(ゴイセン)〉のスペインに対する反乱や,ドイツを舞台にした三十年戦争とともに,近世ヨーロッパに吹き荒れた代表的な宗教戦乱であり,宗教改革に端を発する国際的規模での信仰上の対立が濃い影を落としている。…. Salmon, pp.124–5; the cultural context is explored by N.M. Sutherland, "Calvinism and the conspiracy of Amboise", see his speech to the Estates General at Orleans of 1560, Philip Benedict, ‘Un roi, une loi, deux fois: Parameters for the History of Catholic-Protestant Co-existence in France, 1555-1685’, in O. Grell & B. Scribner (eds), Tolerance and Intolerance in the European Reformation (1996), pp. カトリック カトリックの教会がいつ始まったか、確かな年代は不明。(但し、カトリック教会は、その起源はイエス・キリストにあり初代の法皇がペテロであったと主張しています。)ただ、2世紀中期以降、徐々にカトリック教会の伝統が作り上げられた。 ユグノー戦争(ユグノーせんそう、フランス語:Guerres de religion, 1562年 - 1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。 Mark Greengrass, The French Reformation, (London, 1987). 別名「ローマ教会」、「ローマ・カトリック教会」とも言います。 プロテスタントは世界的には少数派です。ですが、もともとカトリックにプロテクト(反抗して)プロテスタントが誕生したので、幼児洗礼やクリスチャンネーム(洗礼名)などカトリックで行われていることを拒否してい るのです。 ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission. 高校はカトリック、大学はプロテスタントだったのですが、キリスト教徒ではない僕にとって、カトリックとプロテスタントという宗派が存在していることは知っていたのですが、それ以上についてはあまり知らなかったというか、正直興味がなかったので知ろうとしませんでした。 フィリピンでは、カトリック、プロテスタント合わせて国民の約90%以上がキリスト教徒で、アジアでは唯一のキリスト教国となります。 アジアの国でありながら国教がキリスト教となっている背景には、過去に長期間スペインにより植民地支配された歴史があります。 【ホンシェルジュ】 小規模な反乱からヨーロッパ全土を覆う国際戦争へ発展し、最後にして最大の宗教戦争といわれる「三十年戦争」。この記事では戦争の経緯や勝敗などの概要をわかりやすく解説します。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。 ユグノー戦争(ユグノーせんそう、フランス語:Guerres de religion, 1562年 - 1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。, ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まったが、ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれた。ユグノーには貴族も加わり、弾圧にもかかわらず勢力を広げていった。1562年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。, 宗教上の対立であるとともに、ブルボン家(プロテスタント)やギーズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いでもあった。加えて、この戦争はカトリックのスペイン王フェリペ2世とプロテスタントのイングランド女王エリザベス1世との代理戦争の性格も有している。1589年にギーズ公アンリ、次いで国王アンリ3世が暗殺されてヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世が即位してブルボン朝が興った。パリではカトリックの勢力が強く、プロテスタントの王を認めなかったため、アンリ4世はカトリックに改宗している。一方でナントの勅令(1598年)を発して、プロテスタントに一定の制限の下ではあるが信仰の自由を認め、戦争は終結した。, ルター思想は1520年代にフランスに伝わり、プロテスタントに対する政策は寛容と弾圧の間で揺れ動いていた。イタリア戦争の渦中にあったフランソワ1世(在位:1515年 - 1547年)は神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯の反乱を支援しており、フランス国内における信者に対して寛容であった。それ以上にルター派と宮廷内で人気のあった人文主義改革運動との区別が曖昧であり、また国王の姉ナバラ王妃マルグリットはルフェーヴル・デタープルなどの改革者たちを異端の嫌疑から庇護していた。だが、1534年に檄文事件が起こるとフランソワ1世はプロテスタントを脅威と感じ、彼らを弾圧し始める。, アンリ2世の治世(1547年 - 1559年)でも迫害は断続的に続き、治世の終わり頃に異端審問のための新たな法廷が作られ、これはプロテスタントからは火刑法廷(la chambre ardente)と呼ばれた[1]。これはこの時期にカルヴァン派がルター派を凌いでフランス国内におけるプロテスタントの主流になり、急速に数を増やしたことの反動と見られる。フランス生まれのジャン・カルヴァンによって作られたカルヴァン主義は、社会階層や職業の違いなく人々を惹きつけ、更には地域差なく広範囲に広まっていた。, 1559年、66のカルヴァン派信徒団の代表が秘密裏にパリに集まって第1回全国教会会議を催し、信仰告白と教会規則を作成した。1560年時点で、カルヴァン派はフランス総人口1800万人の約10%と推定されている[2]。, 1559年のアンリ2世の突発的な事故死は政治的空白を作り出し、フランソワ2世の妃であるスコットランド女王メアリーの母方の親族であるギーズ家が実権を握った[3]。キーズ公フランソワはカレーをイングランドから奪回した英雄であり、その弟のロレーヌ枢機卿はフランス・カトリック教会の首長で、いずれも熱狂的なカトリックだった。一方のプロテスタントはブルボン家当主のナバラ王アントワーヌを盟主に戴いていたが、熱狂的プロテスタントの妻ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレ(ナバラ王妃マルグリットの娘)に主導権を取られる頼りない人物で[4](戦争中は寝返ってカトリックに改宗している)、後に弟のコンデ公ルイがプロテスタントの中心となる。, 1560年3月、プロテスタント貴族ラ・ルノーディを中心とする不平貴族たちがフランソワ2世を誘拐してギーズ家を除こうと謀った。だが陰謀は露見し、数百人の容疑者たちが処刑されてしまう[5]。ギーズ兄弟はブルボン家のコンデ公ルイが黒幕であると疑った。コンデ公は11月に逮捕された。このことにより対立は一層深まった(アンボワーズの陰謀)。, この後の論争の中で、フランスのプロテスタントはユグノーと呼ばれるようになった[6]。ユグノーはドイツ語のEidgenosse(アイドゲノッセ、盟友の意味)から生まれた蔑称である。, ユグノーによるカトリック教会に対する最初の聖像破壊が1560年にルーアンとラ・ロシェルで発生し、翌年には20の都市に広まった。これに激怒したカトリックの都市住民による流血の報復がサンス、カオール、カルカソンヌ、トゥールその他の都市で行われた[7]。, 王太后カトリーヌ・ド・メディシスはフォンテーヌブロー諮問会議を召集してカトリックとプロテスタントの融和を図るが、ギーズ家は異端絶滅を計画していた[8]。, 1560年12月、フランソワ2世が死去し、弟のシャルル9世が即位。王太后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となる。経験不足とヴァロワ・ハプスブルク戦争の借財のため、カトリーヌは強力な私軍を有する貴族たちの激しく対立した利害関係を慎重に舵取りをせねばならないと感じた。彼女は敬虔なカトリックであったが、強大なギーズ家を牽制するために、ユグノーの盟主であるブルボン家を優遇してナバラ王アントワーヌを国王総代官(Le lieutenant-général)となし、コンデ公ルイに特赦を与えた[9]。また、彼女は協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを重用した。ロピタルは市民の平和のための幾つかの手段を提案し、神聖会議による宗教的解決を主張していた[10]。, 1561年1月に摂政カトリーヌはオルレアン寛容勅令を出すが、これに反発したギーズ公フランソワがアンヌ・ド・モンモランシー、ジャック・ド・サンタンドレと三頭政治を結成して反動政策に乗り出す[11]。, 同年8月に司教会議がユグノーと話し合うようにとの王家から要請を受け入れて、サン=ジェルマン=アン=レー三部会の中で宗教会談が開かれた(ポワシー会談)。プロテスタントはテオドール・ド・ベーズを長とする12人の牧師と20人の平信徒が代表となった。双方とも相手を受け入れようとはせず難航したが、新たな統一の基礎となりうるある程度の一致に達した。ベーズとギーズ家のロレーヌ枢機卿との会談で、礼拝様式に関して両者の妥協がなされるかに見えたが、10月の最終会談でカトリックとプロテスタントとの思想の溝は既に大きく広がってしまっていることがはっきりした[12]。, 1562年の初めに摂政政府は、宮廷内の党派争いに扇動された地方の無秩序を抑えるべく、サン・ジェルマン勅令(1月勅令)を発した。勅令は反乱を回避するためにユグノーに譲歩をし、城壁外および屋内での礼拝を容認していた。だが、3月1日、シャンパーニュのヴァシーでギーズ家の郎党が礼拝をしていたカルヴァン派を襲撃し、虐殺する事件が発生してしまう(ヴァシーの虐殺)。ユグノーのジャン・ド・フォンテーヌは次のように述べている。, 「ギーズ公がやって来た時、プロテスタントたちは勅令に従って城壁の外で礼拝を行っていた。何人かの従者が礼拝者たちを侮辱すると喧嘩沙汰になり、そこで偶然に公自身が頬に傷を受けてしまった。公の流血を見た従者たちは激昂しヴァシーの住民に対する虐殺が起こった。」[13], ヴァシーの虐殺は2つの宗派間の抗争を引き起こすことになった。ブルボン家のコンデ公ルイは「悪」の大臣たちから王と摂政を解放すると宣言し、プロテスタント教会を組織化してロワール川沿いの町々を占拠し、軍隊を駐留させた。実際にはユグノーたちはヴァシー事件以前から動員を開始していたが[14]、コンデ公ルイは虐殺を勅命が破られた証拠であるとし、彼の軍事行動の大義名分に用いた。そして、戦闘が起こると実際にこの勅命は、ギーズ家の圧力によって取り消された。ユグノーは イングランド女王エリザベス1世とハンプトン・コート条約を結び、援助の見返りにル・アーヴル、ディエップ、ルーアンを引き渡す約束をする。これに従い、イングランド軍がル・アーヴルに上陸した。, 主な戦いはルーアンとドルー、そしてオルレアンで起こっている。ルーアン包囲戦(1562年5月 - 10月)では国王軍が町を奪回したものの、ナバラ王アントワーヌが戦死した。ドルーの戦い(1562年12月)ではコンデ公ルイがギーズ家の捕虜になったが、ブルボン家も敵の司令官アンヌ・ド・モンモランシーを捕らえている。1563年2月のオルレアン包囲戦において、ギーズ公フランソワがユグノーのポルトロ・ド・メレに銃撃され、その傷が元で死亡した。ギーズ家は暗殺は敵対者のコリニー提督の差し金であると信じた。暗殺によって引き起こされた暴動とオルレアンが陥落しないため、カトリーヌが和平調停を行い、アンボワーズ勅令が発せられた。, アンボワーズ勅令は全ての関係者にとって不満足なものであり、とりわけギーズ一派は異端との危険な妥協であると見なして反対した。それにもかかわらず、王家は両派の和合はイングランドに占領されているル・アーヴルの奪回のために必要であると考えていた。7月にイングランドを追い出すことに成功し、翌月シャルル9世は成人を宣言、カトリーヌ・ド・メディシスの摂政は終わった。しかしカトリーヌはなおも政治を主導し続け、1564年から1566年にかけて彼女は息子の国内巡幸に同行して国王の権威の再興を図っている。巡幸の最中の1565年2月、カトリーヌはスペイン王首席顧問アルバ公とバイヨンヌで会談を持った。会談の内容は不明だが(スペインがプロテスタント礼拝禁止を迫ったともされる[15])、熱烈なカトリックであるスペイン王フェリペ2世の使者との会談はユグノーたちに警戒される[16]。, フランドルでの聖像破壊の報告を受けたシャルル9世が、この地のカトリックへの支援を行ったことが、ユグノーたちに危機感を起こさせた。スペイン軍がフランドルでのプロテスタントの反乱を鎮圧するためフランス領を通過し、その警戒のために国王が軍備を増強させたこともまた、ユグノーを恐れさせ、政治的不満が増大した。1567年9月にプロテスタント軍はシャルル9世を誘拐して自陣営に取り込もうと謀ったが失敗(モーの奇襲)、続いてラ・ロシェルなどのいくつもの都市がユグノー側に就くことを宣言した。ニームではカトリックは聖職者も平民も虐殺され、この事件はミチェラード(Michelade)と呼ばれている。, この事件が第2次戦争を引き起こした。主な戦闘はサン=ドニの戦い(1567年11月10日)で、国王軍が勝利したものの司令官アンヌ・ド・モンモランシーが戦死している。その後、ユグノーはオルレアンとブロワを攻略してパリに迫る。1568年3月にロンジュモーの和議が結ばれ、プロテスタントに対して信仰の自由と権利が与えられた。, 1568年夏、この和平に反抗するようにカトリックが各地でユグノーの迫害を始め、ユグノーもこれに報復してカトリックを虐殺した[17]。王太后カトリーヌ・ド・メディシスは協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを罷免し、政情はカトリック優勢へ傾いた[18]。身の危険を感じたコンデ公ルイとコリニー提督らユグノー指導者たちは宮廷を脱出したが、彼らの部下の多くが殺害された。9月、サン・モール勅令が出され、ユグノーの礼拝の自由は再び禁じられてしまった。11月、ネーデルラント反乱軍の指導者オラニエ公ウィレムがプロテスタントを支援するために軍を率いてフランスへ侵攻する。だが、彼の軍隊は給与を十分に支払われておらず、このため国王が資金と通行の安全を申し出ると撤退してしまった。, それにもかかわらず、ユグノーはコンデ公ルイを司令官とし、フランス南西部の軍勢とドイツからのプロテスタント民兵(プファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヴォルフガング率いる1万4千の傭兵部隊を含む[19])の助けを受けて強力な軍隊を編成した。傭兵部隊はコンデ公ルイの戦死後もユグノーに雇用され続けており、このためにユグノーはナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの王冠の宝石を担保にイングランドから借金をしている[20]。ユグノーの軍資金の多くはイングランド女王エリザベス1世から提供されたもので、これは彼女の腹心フランシス・ウォルシンガムの影響力によるものと考えられている[19]。カトリック軍は王弟アンジュー公アンリが司令官となり、スペイン、教皇領、トスカーナ大公国の援軍を得ていた[21]。, ユグノー軍はラ・ロシェル防衛のためにポワトゥーとサントンジュ地方の幾つかの都市を包囲し、それからアングレームとコニャックを攻めた。1569年3月16日のジャルナックの戦いでユグノーの司令官コンデ公ルイが戦死し、狂喜したアンジュー公アンリはコンデ公の死体をロバにつないで引きずり回している[22]。, ユグノーはコンデ公の15歳の息子アンリを名目上の司令官としてコリニー提督が指揮を執ることになり、また国王の権威に対抗するためにナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの16歳の息子アンリ・ド・ベアルンを指導者とした。, ユグノーはラロシュ=ラベイユの戦い(1569年6月25日)に勝利したもののポワチエを奪取することはできず、モンコントゥールの戦い(1569年10月30日)で国王軍に大敗を喫してしまう。コリニーと彼の軍隊は南西部へ後退してモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュと合流し再編を行い、1570年春にトゥールーズを掠奪して南部への連絡路を切断、そしてローヌ渓谷を進軍し、パリから200kmのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールに達した[23] 。戦争によって王家の負債は激増しており、シャルル9世が平和的解決を望んだため[24]、1570年8月8日にサン・ジェルマン和議が結ばれ、再びユグノーに対する譲歩がなされた。, この当てにならない和平にもかかわらず、ルーアン、オランジュ、パリなどの都市ではカトリックの群衆によるユグノー虐殺が続いていた。宮廷の事情は更に複雑で、シャルル9世がユグノーたち、とりわけコリニー提督と結びつき始めた。一方、王太后カトリーヌはコリニー提督とその支持者たちの権勢の拡大を食い止められないこと、特にコリニー提督がイングランドやネーデルラント反乱軍との同盟を主張していたことが明らかになると、次第に脅威を感じ始める。, 1572年8月18日、コリニー提督やその他のカルヴァン派貴族たちが王女マルグリットとプロテスタントのナバラ王アンリ(同年6月の母の死により王位を継承)の結婚式に参列するためパリにやって来た。8月22日、通りの窓からコリニー提督を狙撃する暗殺未遂事件が起こる。歴史家の間では暗殺者がシャルル・ド・ルビエであることは定説になっているものの、暗殺の指示者は明らかになっていない(カトリーヌが指示したとの広く知られる説は当てにならない)[25]。, ユグノーによる報復クーデターを恐れたギーズ公アンリとその一派は行動を起こし、8月24日早朝に従者とともに宿屋にいたコリニー提督を襲撃して殺害した。コリニー提督の死体は窓外へ投げ出され、その後、死体はパリ市民によって無残に切り刻まれ、切断されて、群衆の中を引き回された末に川に投げ込まれ、絞首台に釣り上げられた後に焼かれた[26]。その後5日間にわたって大規模な虐殺が行われ、カルヴァン派は男も、女もそして子供までも殺され、彼らの家々は略奪された。これらの蛮行に王の許可はなく、予測もされないことだった[27]。5週間にわたり、十数の都市で無秩序が広まった。結局、パリではおよそ2000人のユグノーが虐殺され、地方ではおそらく1万人が犠牲となった[28]。ナバラ王アンリと従弟コンデ公アンリは、カトリックへの改宗に応じたことで辛うじて死を免れた。, スペイン王フェリペ2世とローマ教皇グレゴリウス13世はこの結果に対する満足の意を表明したが、ヨーロッパ中のプロテスタントたちには恐怖と憤慨を引き起こしている。フランスではユグノーたちが恐慌状態になり、カトリックへ改宗する者が続出し、一部は国外に亡命して、王家に対抗するユグノーの力が酷く弱まってしまった[29][30]。, 一方で、残ったプロテスタントはより過激になり、君主を選ぶ権利は人民にあり、君主が暴政を行うならば追放することができるとする「暴君放伐論」が唱えられた[31][32]。また、法曹家を中心とした穏健なカトリック教徒たちはカトリック過激派の暴走を危惧し、王国の分裂を防ぐためにカトリックとプロテスタントとの融和とより強い王権の確立を主張するようになり、彼らはポリティーク派と呼ばれた[33][34][35]。, 虐殺はさらなる軍事行動を引き起こし、カトリック軍はアンリ・ド・モンモランシーの軍がソミエールを、アンジュー公アンリの軍がサンセールとラ・ロシェルを包囲した。1573年5月にアンジュー公アンリがポーランド王に選出され、ポーランド議会代表の介入によりラ・ロシェルの包囲は解かれ[36]、7月にブローニュ勅令が発せられると戦闘は終結した。, ブローニュ勅令は以前ユグノーに与えられた権利を縮小したもので、全てのユグノーに過去の行動の赦免と信仰の自由が与えられたが、礼拝はラ・ロシェル、モントーバン、ニームの3都市でのみ許され、しかも住居内のみであった。上級裁判権を持つプロテスタント貴族は結婚式と洗礼式を挙げることが許されたものの、家族以外の参列は10名に制限されている[37]。, アンジュー公アンリが不在の間、シャルル9世と末弟アランソン公フランソワが諍いを始め、多くのユグノーが保護と支持を求めてアランソン公フランソワ周辺に集うようになった。1574年2月にサン・ジェルマンでクーデター未遂事件が起きたが、申し立てによればその目的はサン・バルテルミの虐殺以降宮廷に捕らえられているナバラ王アンリとコンデ公アンリの救出であった。同時にバス=ノルマンディー、ポワトーそしてローヌ渓谷[38]などでユグノーが蜂起し、戦争を再燃させた。, アンジュー公アンリがポーランド王に即位した3ヶ月後の1574年5月、シャルル9世が死去した。王太后カトリーヌはアンリが帰国するまで摂政に就任すると宣言する。アンリは秘密裏にポーランドを去り、ヴェネツィア経由でフランスに帰国した。帰国した彼はラングドック地方総督モンモランシー=ダンヴィルの裏切り(1574年11月)に直面することになった。不満派(ポリティーク派)のダンヴィルは南フランスのユグノーと結託して王家に背いてしまった[39][40]。, 1575年2月に彼はランスでアンリ3世として即位し、ギーズ家の同族であるルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンと結婚した。国王は4月には交渉を模索していた[41] 。だが、9月に末弟アランソン公フランソワが宮廷から逃亡して、不満派の頭目になる。更にプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハンがシャンパーニュに侵攻したことからも、国王に敵対する連合軍の勢力が圧倒的になる可能性が俄然増してきた。国王は慌ててアランソン公との7カ月の休戦協定を交渉し、ツヴァイブリュッケン公の軍にはライン川東岸に留まることを条件に50万リーブルの支払いを約束したが[42]、いずれも和平を確実にするものではなかった。, 1576年の始めにナバラ王アンリとコンデ公アンリがパリからの脱出に成功し、先の改宗を否認してプロテスタントに復帰する。3月、国王はアランソン公フランソワとユグノーの条件を受け入れることを強いられ、「王弟殿下の和議」(paix de Monsieur)と呼ばれるボーリュー勅令を出した。勅令ではパリ城壁内以外の全ての場所でのプロテスタントの公的礼拝が認められ、更にユグノーに安全保障都市が8箇所与えられた[43]。, ボーリュー勅令はカルヴァン派に対して多くの譲歩をしていたものの、これに反対すべくカトリック過激派のギーズ公アンリがカトリック同盟を結成したため、短命に終わってしまった。ギーズ家は長きにわたりカトリックの守護者と見なされており、ギーズ公アンリとその親族(マイエンヌ公シャルル、オマール公シャルル、エルブフ公シャルル、メルクール公フィリップ・エマニュエル、ロレーヌ公シャルル3世)が同盟に忠誠を誓う広大な地域を支配していた。同盟はまた都市中間層に多くの支持者を持っていた。, 1576年のブロワ三部会は事態の解決ができず、12月にはポワトゥーとギュイエンヌのユグノーが武装蜂起する。ギーズ一派がスペイン王家からの確固とした支援を受けていた一方で、ユグノーにも南西部に強固な地盤を持つ強みがあった。彼らはまた国外のプロテスタント諸国からの支援を受けていたものの、実際にはイングランドやドイツ諸邦は少数の軍隊を送ったにすぎない。, 今回の戦争では王弟アンジュー公(元アランソン公)フランソワ、ダンヴィルら不満派はカトリック同盟に与しており、戦況はユグノー側に不利であった。結局、アンリ3世とユグノーはボーリュー勅令でなされた譲歩の多くを撤回するベルジュラック協定を結び、6日後にこれを確認するポワティエ勅令を発した[44]。, 王弟アンジュー公フランソワとその支持者たちはネーデルラントの反乱に介入して戦争を行い、宮廷に混乱を生み出し続けていた(アンジュー公フランソワはネーデルラント北部諸州連合の君主の地位を提案されていた)。一方、地方の情勢はカトリックとプロテスタントが自衛のために武装して無秩序に陥っていた。, 1579年11月、コンデ公アンリがラ・フェールを襲撃し、新たな戦争が始まった。「恋人たちの戦争」(guerre des Amoureux)と呼ばれるこの戦争は、1580年11月にアンジュー公フランソワとの交渉によりル・フルクスの和議が結ばれて終結している。, この脆い妥協は、1584年6月に国王の末弟で推定相続人のアンジュー公フランソワが死去したことにより終わった。アンリ3世には世継ぎがなく、サリカ法に基づく次の王位継承者はルイ9世の血を引くナバラ王アンリとなるが、彼は従弟のコンデ公アンリとともに教皇シクストゥス5世から破門された身であった。ナバラ王アンリがプロテスタント信仰を捨てないと明らかになると、12月にギーズ公アンリはカトリック同盟の代表としてスペイン王フェリペ2世とジョアンヴィル条約を結んだ。フェリペ2世はフランスの内乱を続けさせ、カルヴァン派を壊滅させる目的で、続く10年間カトリック同盟に莫大な援助を提供することになる。, ギーズ家の圧力の下で、1585年7月にアンリ3世は渋々ながらヌムール勅令を発し、プロテスタントの礼拝禁止と改宗に応じない者の国外追放を強いる弾圧政策と、ナバラ王アンリの王位継承権無効を宣言した。教皇シクストゥス5世もこれに応じて、ナバラ王アンリのナバラ王位とフランス王位継承権の剥奪を宣言する[45]。, 当初、国王はカトリック同盟の指導者を取り込んで交渉による解決に持ち込もうと図っていた。だが、この動きはユグノーを破産させてその財産を国王と分割しようと望んでいたギーズ家にはひどく嫌われた。状況は悪化して、再びユグノーとの戦闘状態に突入してしまう。ナバラ王アンリはドイツ諸邦やイングランド王エリザベス1世からの援助を求め、また不満派や穏健派カトリック(ポリティーク派)と手を結ぶ[46]。1587年10月20日のクートラの戦いでナバラ王アンリはカトリック軍に大勝した。, 一方、強硬派カトリックの16区総代会の影響の下、パリ市民はアンリ3世自身と彼がユグノーを撃破できないことに不満だった。1588年5月12日、アンリ3世がギーズ公の命を狙っていると疑ったパリ市民が、ギーズ公を守るために通りにバリケードを組んで蜂起し、恐れたアンリ3世は逃亡してしまう(バリケードの日)。16区総代会が市政を掌握し、ギーズ公が市への補給路を確保した。王太后カトリーヌが仲介して統一勅令が出され、国王はヌムール勅令の再確認、ナバラ王の叔父ブルボン枢機卿(ギーズ派)を王位継承者に承認、ギーズ公の国王総代官任命といったカトリック同盟の要求をほとんど全部飲まされた。, パリへ帰還することを拒んだアンリ3世は、1588年9月にブロワで三部会を招集した。三部会の間、アンリ3世は平民部会の議員たちがカトリック同盟に操られていると疑うようになり、更に10月に起こったサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世によるサルッツォ侵攻はギーズ公による手引きによるものと確信する。ギーズ家が王権に対する脅威であると考えたアンリ3世は、先手を打つことを決意した。12月23日、ギーズ公と弟のギーズ枢機卿は国王衛兵隊が仕掛けた罠にかかった。その日、ギーズ公はブロワ城に到着し、弟の枢機卿が待つ会議室に入る。彼は国王室の隣の書斎で国王が会見を望んでいると告げられた。そこで衛兵がギーズ公に掴みかかり、心臓を刺して殺し、他の衛兵がギーズ枢機卿を逮捕した。ギーズ枢機卿は連行中に矛で突き殺されている。昂奮したアンリ3世は病床にあった母カトリーヌの部屋に駆け込み「私だけがフランスの王になった。私がパリの王を殺した」と語ったという[47]。, もはや王権に対抗する者はいないと信じたアンリ3世は、ギーズ公の息子シャルルを投獄してしまう。この混乱の最中の1589年1月5日、病床にあった王太后カトリーヌが70歳で息をひきとった。, だが、カトリックの守護者と見られていたギーズ公アンリのフランス国内での人気は非常に高く、カトリック同盟はアンリ3世に対する宣戦を布告する。アンリ3世はユグノーの盟主であるナバラ王アンリの軍に加わってカトリック同盟に戦いを仕掛け、これに対してパリ高等法院が国王の有罪を申し立てた。, ギーズ公亡き後、弟のマイエンヌ公シャルルがカトリック同盟の新たな首領になった。同盟は様々な偽名を使って国王を中傷するパンフレットを発行し始め、パリ大学はアンリ3世を退けることは必要であり、正義であると宣言する。これにより多くの市民にとって王殺しに対する道義的障害がなくなった。, 1589年8月1日、ユグノー軍とともにパリを攻撃すべくサン=クルーに滞在していたアンリ3世は、ドミニコ会修道士ジャック・クレマンとの謁見中に襲われ、ナイフで脾臓を突き刺された。クレマンはその場で殺され、何者かの指示があったか否かは語らなかった。アンリ3世は死の床へナバラ王アンリを呼び、国政運営のためにカトリックへ改宗するよう懇願し、もしもこれを拒否すれば酷い戦争が続くだろうと訴えかけた。サリカ法に則り、アンリ3世はナバラ王アンリを王位継承者に指名する。翌日未明にアンリ3世が死去し、ヴァロワ朝は断絶した。, 1589年時点で、新たにフランス国王に即位したアンリ4世は南部と西部を確保し、カトリック同盟は北部と東部を支配していた。カトリック同盟の主導権はギーズ家一門のマイエンヌ公シャルルに委ねられた。カトリック同盟はブルボン枢機卿を「シャルル10世」として国王に擁立し、マイエンヌ公は王国総代官に任命されている。カトリック同盟はノルマンディー地方のほとんどを支配していた。だが、9月のアルクの戦いでアンリ4世はマイエンヌ公に大勝を収め、国王軍は冬季に町々を攻略してノルマンディーを掃討した。, アンリ4世はフランス平定のためにはパリを攻略せねばならないと知っていたが、これは容易なことではなかった。プロテスタント化したイングランドにおける聖職者や平信徒に対する残虐行為の話がカトリック同盟によって出版され、またその支持者たちにより広められていた。パリ市民はカルヴァン派の国王を受け入れるよりは死ぬことを覚悟して、戦う準備をしていた。, 1590年3月14日のイヴリーの戦いでアンリ4世は再びマイエンヌ公を破った。国王軍はパリを包囲したが、8月末にパルマ公アレッサンドロ率いるスペイン軍が歩兵1万8千と騎兵隊5千をもって来援したため、包囲を解かねばならなかった[48]。1491年11月から1492年3月のルーアン包囲戦も同じ結果になった。, 一方、1582年にアンリ3世にブルターニュ総督に任命されたメルクール公フィリップ・エマニュエルはこの地域を独立させようと図っていた。カトリック同盟の指導者の一人であるメルクール公は、かつてのブルターニュ公の子孫であり、かつブロワ=ブロスの相続人であった妻マリー・ド・リュクサンブールの世襲権を使い、ブルターニュ公領とパンティエーヴル公領の所有権を主張し、ナントに政府を樹立する。息子を「ブルターニュ公爵かつ王子」であると宣言して、彼はスペイン王フェリペ2世と同盟した。フェリペ2世は王女イサベル・クララ・エウヘニアをブルターニュ女王にしようとしていた。スペインの助けを受けたメルクール公は1592年にモンパンシエ公アンリ率いる国王軍をクラン (Craon) で破った。だが、イングランド軍の増援を受けた国王軍はすぐに優勢をとり戻している。, 1590年5月にカトリック同盟が擁立したシャルル10世(ブルボン枢機卿)が死去した。1593年にマイエンヌ公は国王選出のための全国三部会を招集するが、無論アンリ4世はこれを妨害し、カトリック同盟のみが参加した。スペイン王フェリペ2世は王女イサベル・クララ・エウヘニアをフランス国王に送り込もうと企てるが、パリ高等法院がこれに反対してカトリック同盟の足並みが乱れた[49][50]。, 1590年から1592年の一連の戦役にもかかわらず、アンリ4世は「パリを取るには程遠かった」[51]。アンリ4世は根強いカトリックのパリ市民がプロテスタントの国王を受け入れる見込みはないと悟った。彼は1593年7月の寵妃ガブリエル・デストレへの手紙で「とんぼ返りを打とう」と書いている[52]。それから程ない7月25日、アンリ4世はサン=ドニ教会でカトリックに改宗した[53]。巷間知られるところによれば「パリはミサをする値打ちがある」(Paris vaut bien une messe)と語ったという[54]。, アンリ4世はカトリック教会に受け入れられ、1594年2月にシャルトル大聖堂において成聖式を行う。本来はランス大聖堂で行わねばならないが、ここは依然としてカトリック同盟の勢力下にあり、アンリ4世の誠意を疑って敵対していたためである。3月22日、アンリ4世は遂にパリに入城し、服従を拒否した120人のカトリック同盟のメンバーはパリから追放された[55]。パリの開城により他の多くの都市も後に続き、ベアルンでのカトリックの復旧と高位官職にはカトリックのみを任命すると定めたトリエント布告の見返りに教皇クレメンス8世がアンリ4世を赦免して破門を取り消すと、残った都市も国王の支持に回った[56]。アンリ4世の改宗はプロテスタント貴族たちを悩ませた。その時まで彼らの多くは妥協ではなく勝利をして、フランス教会の完全な改革を望んでいたからであり、彼らがアンリ4世を受け入れたのはこのような結果のためではなかった。ユグノーはアンリ4世の妥協的な態度を警戒し、1594年と1596年に政治会議を開いて国王へ警告を発している[57]。, 1594年の終わりには幾分かのカトリック同盟のメンバーが依然として国中で活動していたが、全てはスペインの援助頼みだった。そのため、アンリ4世は1595年1月にスペインに宣戦布告を行った。これは、カトリックに対してはスペインが宗教をフランス侵略の口実に使っていると示すため、プロテスタントには国王はカトリックに改宗したが決してスペインの傀儡ではないと示すためであった。また一方で、スペインとの戦争により領土を獲得することも望んではいた[58]。戦いは主にカトリック同盟を標的にして、フォンテーヌ=フランセーズの戦いなどが行われたが、春からスペインが集中攻勢をかけ、4月にカレーとアルドが占領される。1597年3月に国王軍はアミアンを包囲し、9月にこれを降伏させた。これより前の1596年1月にマイエンヌ公は降伏し、他のほとんどの地方もアンリ4世に帰順し、カトリック同盟は瓦解していた[59]。, アミアンを落とすと、アンリ4世の関心はブルターニュへ向き、1598年初めにメルクール公を標的に進軍し、3月20日にアンジェで降伏を受け入れた。その後、メルクール公はハンガリーへ亡命し、彼の相続人である娘はアンリ4世の非嫡出子ヴァンドーム公セザールと結婚している。, アンリ4世はポンポンヌ・ド・ベリエーヴルとブリュラール・ド・シルリーを和平交渉のためスペインへ派遣した。ナント勅令の後の1598年5月にヴェルヴァン条約が結ばれ、戦争は正式に終わった。, アンリ4世は、破壊され疲弊しきった王国の再建と、唯一の権威の下で統一をする責務に直面していた。彼と国王顧問シュリー公はこの第一歩として、ナント勅令について話し合った。1598年4月13日、アンリ4世はナント勅令を発し、プロテスタントの信仰の自由を保障し、一定地域に限られていはいたが礼拝を認めた。また、ラ・ロシェルなどの都市を安全保障地とし、政治・軍事の自治権が与えられた。, これは単なる寛容政策の証ではなく、双方の宗派の自由を保障することによって宗派間の怨恨を休戦させる類のものであった[60]。勅令はこの宗教戦争を終わらせる画期であると言われるが、当時の史料にはこれによる明確な成果は確認されていない。実際、アンリ4世は1599年1月にこの勅令を通過させるために高等法院へ自ら訪れねばならなかった。, 宗派間の対立はその後何年間も政策に悪影響を及ぼし続け、二度と同様の勅令を出さなかったにもかかわらず、アンリ4世は幾度も生命の危険にさらされ、そして最後に、国王がキリスト教徒としての責務を果たさなかったと信じた一人のカトリックによって、それは成功した。1610年5月14日、アンリ4世は狂信的なカトリック信者に暗殺された。, ナント勅令によって戦争は終結したものの、ユグノーに与えられた政治的自由(中傷する者からは「国家の中の国家」と言われた)は、17世紀を通じて次第に騒動の元となる。南フランスの一部にカトリックを再導入するルイ13世の決定は、ユグノーの反乱を引き起こしてしまう。1622年のモンペリエ協定により、武装したユグノーの都市はラ・ロシェルとモントーバンの2つに減らされた。これに続く戦争で、リシュリュー枢機卿が指揮する国王軍がラ・ロシェルを14ヶ月間包囲した(ラ・ロシェル包囲戦)。1629年のラ・ロシェル和議により、過去の勅命による諸特許(brevets)は全て取り消されてしまったが、プロテスタントは戦前と同じく信仰の自由は保てた。, ルイ13世の残りの治世とルイ14世の幼少期、勅令の実施は年々様々に変わった。1661年、ユグノーを敵視するルイ14世がフランス政府の実権を握ると、勅令の条文の幾つかを無視し始める。1681年、竜騎兵の迫害(dragonnades)政策を始め、ユグノーの家族にカトリックに再改宗するか他国へ移住するかを迫った。最後にはルイ14世はフォンテーヌブロー勅令を発し、過去の勅令を正式に取り消し、フランスにおけるプロテスタントを非合法化した。勅令の撤回は、フランスに深刻な損害を与える結果となった。これは新たな反乱は引き起こさなかったが、多くのプロテスタントが改宗するよりはフランスを去ることを選び、ほとんどがイングランド、プロイセン、オランダ、そしてスイスへ移住している。, 18世紀に入った頃には、プロテスタントは中央高地の僻地セヴェンヌ山脈にかなりの数が残っていた。カミザール(Camisard)の名で知られるこれらの人々は、1702年に政府に対して反乱を起こし、1715年まで戦い続けた。その後、カミザールはおおよそ平穏のうちに取り残されている。, 武装した平和(1563年 - 1567年)と第2次戦争(1567年 - 1568年), Carter Lindberg, 'The European Reformations' (1996) p282. プロテスタント. 特にプロテスタントと正教会による反論に答えます。ある典型的な反論はこれです。 「でも、プロテスタントこそカトリックではないだろうか」 「でも、正教会こそカトリックではないだろうか」と言った … キリスト教の歴史を振りかえりながら、カトリックとプロテスタントの違いを簡略に理解してみましょう。キリスト教の歴史を振り返ってみますと、「分派分裂の歴史」であることがわかりますキリスト教を大きく分けるとカトリックとプロテスタントになります。 Mark Greengrass, Governing Passions: Peace and Reform in the French Kingdom, 1576-1585, (Oxford, 2007). 現在アメリカ合衆国は宗教国家と呼ばれ、キリスト教の国です。 子供たちの通う学校にもカトリックスクールなどと名前がつけられていて、アメリカ人は幼い頃から聖書を学びます。 しかしアメリカ人のキリスト教の大半はプロテスタントであり、カトリックが受け入れられ始めたのはまだ最近のことです。 アメリカの歴史はまだ400年程度ですが、その中で宗教の名のもとに長い争いの歴史がありました。 N.M. Sutherland, "Calvinism and the conspiracy of Amboise", History 47 (1962:111-38). 一般には、 宗教改革 後の16~17世紀、ヨーロッパにおける カトリック と プロテスタント との 対立 抗争 によって起こった国内的、国際的戦争をさす。 ユグノー戦争 ・ オランダ独立戦争 ・ 三十年戦争 など。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 プロテスタントとカトリックにはなぜ違いがあるのか、まずは2つの教派が誕生した経緯からお話しするところから始めたいと思います。先に誕生したのは「カトリック」ですが、いつ始まったのかという年代は不明と言われています。カトリックは、イエス・キリストの弟子たちが作った「初代教会(初期キリスト教)」の流れを汲んでおり、当初はキリスト教の主流ともいえる教派でした。 それが312年に、当時ヨーロッパの一大勢力であったローマ帝国の皇帝・コンスタンチンがキリスト信者になったこ … Barbara B. Diefendorf, Beneath the Cross: Catholics and Huguenots in Sixteenth-Century Paris (Oxford, 1991). Mark Greengrass, France in the Age of Henry IV, (London, 1986). プロテスタントとカトリックの共通点として、7つ(イエス・キリスト、聖書、主の祈り、三位一体、洗礼、聖餐)挙げられます。これはキリスト教の根幹なのでプロテスタントやカトリック以外の宗派にも共通していることが多いと言われています。 2、カトリックとプロテスタント 元々キリスト教が生まれた(イエス・キリストの死後、弟子たちが教団を形成した)時にはカトリックだけしかなく(もともとそんな呼び方自身もなかったろう。 無償で自発的に社会活動に参加したり,技術や知識を提供したりする人,またはその活動。社会福祉,教育,環境保全,保健など,社会全般を対象とする。一般的にボランティアの理念として,自分から行動すること,とも... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 65–93. カトリックとプロテスタントの違い. こちらは、カトリックや正教よりも、もっと後に出てきた教派です。大体16世紀頃。 キリスト教の成立が1世紀なので、比較的むちゃくちゃ新しい教派ですね! 「プロテスタント」という言葉は、「抗議する人」という意味です。一体何に抗議するのでしょうか? 16世紀に起こった、 フランスのカトリックとプロテスタント (カルヴァン派)間で起きた戦争。 カルヴァンは、当時の宗教改革者の1人で、彼の教えを信じる人々 (カルヴァン派)がフランス内でも増加していました。 アルスター地方を中心に始まったこの年の反乱では、アイルランド人によってイギリスからの移民たちが数多く殺されました。この反乱は、民族の争いである以上にカトリックとプロテスタントによる宗教戦争の色合いが濃いものでもありました。 ①カノッサの屈辱(1077年) 聖職者任命権限を懸けた、ローマ皇帝vsローマ教皇の争いの物語。 カトリックとプロテスタント。同じキリスト教なのに違いはどこにあるのでしょうか?教会や十字架に違いが?カトリックとプロテスタントは対立しているの?気になる教会の違いやカトリックとプロテスタントの対立についてご紹介します。本当に対立しているのでしょうか。 プロテスタントの人たちの日曜日の様子は、カトリックと同じく主の晩餐にあずかる時間もありますが、神への賛美、祈り、聖書朗読、そして聖書説教という流れがあり、聖書の言葉を聞くことが礼拝の多くの時間を占めます。 また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 カトリック教会という言葉を聞いたことある方も多いと思いますが、カトリック教会とは何か?いつ、どんな要因でできたのか?についてはご存知でない方もいると思います。 実はカトリック教会を紐解い … カトリックが多数派を占めていたアイルランドはジェームズ2世を支持。 アイルランド全土で兵を募りジャコバイト軍を結成すると、ジェームズ2世もフランスからの援軍6,000を得て合流し、プロテスタントの拠点の1つであるアイルランド北部アルスターの都市ロンドンデリーを包囲した。 元々はカトリック教会の一部であったが、16世紀のイングランド国王ヘンリー8世から女王エリザベス1世の時代にかけてローマ教皇庁から離別し、1534年に独立した教会となった。. プロテスタントとは? プロテスタントは、 ルターによる宗教改革によってカトリックから分裂して生まれた宗 派で、世界に 4億人 以上の信徒がいます。 ですから、三大宗派の中では最も新しい宗派ですね。 プロテスタントはさらに様々な教派に分かれており、 もはや僕も把握しきれません。 Amazonでクリス・モモセのプロテスタントとカトリックの団結ですか?。アマゾンならポイント還元本が多数。クリス・モモセ作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またプロテスタントとカトリックの団結ですか?もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 〘名〙 宗教上の争いが原因で起こった戦争。特に、一六~一七世紀のヨーロッパで、キリスト教のプロテスタントとローマ‐カトリック教の対立・抗争からひき起こされた国内的および国際的戦争。政治的な問題と結びついたものが多く、オランダの独立戦争(八十年戦争)、ドイツの三十年戦争、フランスのユグノー戦争、イギリスとスペインの抗争などが有名。, ※夜明け前(1932‐35)〈島崎藤村〉第一部「水戸の党派争ひは殆んど宗教戦争に似てゐて」. 概要. まずはカトリックとプロテスタントとは何かから違いについてです。 ・カトリック は、ローマ教皇(法王)を中心として、全世界に12億人以上の信徒がいる、キリスト教最大の宗派です。. ⑴ カトリックでは神父と呼び、女性は神父にはなれない。プロテスタントでは牧師と呼び女性でもなれる。 ☆サブストーリー. まず最初はわかりやすさ重視。 ざっくりと簡単に言い切っちゃうよ。 プロテスタントはなんと言っても「聖書主義」。 聖書こそが唯一頼れるもので、他を頼る必要もない。……って考えが基本。 そのため(聖書で理想とされてる)清らかさを強く求めるところも多い。 プロテスタントのもうひとつの特徴が、「千差万別」。 個々の教派・教団によって、驚くほど意見が違う。真反対なこともしばしば。 カトリックはなんと言って … 1688年の名誉革命で、カトリック信者であるジェームズ2世が排除され、プロテスタントのメアリ2世とウィリアム3世がオランダから迎えられたことによって、カトリック排除は決定的になった。その時定められた寛容法でもカトリックは除外された。 カトリックとプロテスタントとの争いって、キリスト教とイスラム教との争いにも負けず劣らずホットな話題だった時代があったのです。 それでも、今は共存できている。 南北アイルランドの紛争が落ち着いたのも、実はここ20年くらいのことなのですよね。 二つの宗派は神の存在を第一に置くことは同じですが、プロテスタントは聖書を、カトリックは教会の存在を第二の権力としています。 65-93, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ユグノー戦争&oldid=81259125, 1572年11月~1573年7月 - ラ・ロシェル包囲戦(1572年-1573年), Philip Benedict, ‘Un roi, une loi, deux fois: Parameters for the History of Catholic-Protestant Co-existence in France, 1555-1685’, in O. Grell & B. Scribner (eds), Tolerance and Intolerance in the European Reformation (1996), pp. 彼自身フランス人であり、祖国のプロテスタント化に強い使命感を抱いていました。プロテスタントは大貴族層にも広まり、貴族の権力争いの影響もあって、16世紀後半のフランスはカトリック対プロテスタントの宗教戦争になります。