アジアで植民地を持ったのは日本だけで、アジアで植民地にならなかったのは日本とタイだけである。東南アジアの国が次々と欧米の植民地になったにも拘わらず、タイだけが植民地にならなかった理由について考える。 (2) タイの地理的要因 しかし、モロッコの独立は、その後に相次ぐ植民地独立の嚆矢となった事件であった。その後 に相次いだ植民地の独立承認は、モロッコをモデルケースとして、宗主国が影響力保持のため に採用した政策だ … 東ティモールは、バリ島の東方に位置する小さな国です。今回はそんな東ティモールの歴史について、紀元前〜ポルトガル植民地時代、インドネシア軍の侵略や日本との関わりまでを徹底解説します。有名なコーヒー産業やキリスト教信仰の理由もわかるはずです。 10 徳川家治(1760-1786) オーストラリアは地理的にアメリカから遠く離れているため、物理的にはアメリカと何のつながりもありませんが、国家形成の過程では、アメリカの独立戦争(アメリカでは独立革命と呼ばれています)の影響を多大に受けています。 まず、アメリカ独立戦争前のアメリカの背景がどのようなものだったかをみてみましょう。 イギリスがアメリカを植民地にしたのは1607年で、最初の植民地はバージニアに建設されました。その後も植民地化が進み、東海岸に13の植民地が成立しました。このようにしてでき … アフリカ諸国の独立/アフリカの年/1960年. 11 徳川家斉(1787-1837) というと、戦争が始まった日でも終わった日でもなく、開戦から1年後の7月4日に批准されています。, というと、ここで13植民地全てが ※足利義稙(1508-1522) イギリスの一部のままでも同じだったかもしれませんけどね。, 【参考】 アフリカの年となった1960年にアフリカ大陸の独立国は9カ国(人口9500万人)から一気に26カ国(人口1億8000万人)にまで増加した 。 独立を達成した全ての国でパン・アフリカ主義が強調された 。. 3 足利義満(1369-1395) 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. 8 足利義政(1449-1474) ↓ そのため、あっちでもこっちでも多額の費用が必要になり、その穴埋めに新たな課税をするハメに陥りました。, 国内はもちろん、新たに加わったアメリカ13州(以下13植民地)もその例外ではありません。, 13植民地には、特有の事情がありました。 2 足利義詮(1359-1367) フランス革命 9 徳川家重(1745-1760) 1947年には最大の植民地であったインドが独立しました。19世紀頃のイギリス帝国の勢いは完全に衰え、イギリスの海外領土は瞬く間に減っていったのです。 イギリスによる「植民地支配」 なぜ植民地の支配をしたのか 11 足利義澄(1495-1508) 東南アジアの国のほとんどが過去に植民地となった苦い過去を持つが、タイだけは植民地とならず独立を保ち続けた。これはなぜなのだろうか。中国メディアの快資訊は16日、2人の英雄による貢献が主な理 … り独立戦争が始まり、和解のない内戦と なったが、植民地側が勝利をおさめた。 独立後、1787年には、人民主権と三権分立、 連邦制をとる合衆国憲法を制定した。 ①なぜアメリカの独立は“革命”なのだ ろ … 5 徳川綱吉(1680-1709) ゆえに紅茶は生活必需品です。 戦争に勝ったイギリスやフランスが、植民地を手放した理由は何なのでしょうか。 / 第二次世界大戦だと思いますが、欧州戦線でイギリスやフランスは予想以上に疲弊してしまったと言うことでしょう。植民地があれば、搾取したり、自国の商品を押しつけたり、メリットもあ… 15 足利義昭(1568-1588), 1 徳川家康(1603-1605) 3 徳川家光(1623-1651) アフリカが植民地にされていた理由は? アフリカに残るヨーロッパによる植民地支配の影響は? アフリカの旧宗主国と今なお残る影響とは? アフリカ諸国が独立できた理由とは? アフリカの神話上の生物がヤバすぎる… アフリカで有名な神話って何? という流れです。, いざ独立を勝ち取った13植民地側でも、全てがうまくいったわけではありません。 武装した兵士が民間人を虐殺するなんていつの時代でも官憲のやっちゃいけないことNo.1なんですが、何故かどこの国もやりがちなんですよね。, こうして双方ケンカの売りあいになった本国と13植民地。 「課税は仕方ないとしても、せめて事前に連絡せいよ!」 という話です。 ラテンアメリカの歴史は、「先コロンブス時代、植民地時代、独立国家の時代」に大別される。 1492年の コロンブス の到達以後が「植民地時代」であり、1810年に始まる独立戦争を経て一斉に独立する1820年代以降が「独立国家の時代」といえる。 5 藤原頼嗣(1244-1252) アフリカが植民地にされていた理由は? アフリカに残るヨーロッパによる植民地支配の影響は? アフリカの旧宗主国と今なお残る影響とは? アフリカ諸国が独立できた理由とは? アフリカの神話上の生物がヤバすぎる… アフリカで有名な神話って何? アフリカ植民地はなぜ始まり、どうやって進められ、どのような影響を残しているのでしょうか。 この記事では、アフリカ植民地とはどのようなものだったのか、現代へどのような影響を与えているかを解説していきます。 太字は旧フランス植民地 . さかのぼり日本史 外交篇 [4]幕末 独立を守った“現実外交” なぜ、植民地化を免れることができたのか [著] 犬塚孝明 . アメリカ建国の要因(3)独立革命はなぜ起こったか. 戦争に勝ったイギリスやフランスが、植民地を手放した理由は何なのでしょうか。 / 第二次世界大戦だと思いますが、欧州戦線でイギリスやフランスは予想以上に疲弊してしまったと言うことでしょう。植民地があれば、搾取したり、自国の商品を押しつけたり、メリットもあ… 1600年代から300年以上もオランダの植民地であったインドネシア。その後日本の軍政支配下に置かれたことはご存知のとおりですが、日本軍はインドネシアの独立に大いに貢献したといいます。無料メルマガ『Japan on the… アフリカが植民地にされていた理由は? アフリカに残るヨーロッパによる植民地支配の影響は? アフリカの旧宗主国と今なお残る影響とは? アフリカ諸国が独立できた理由とは? アフリカの神話上の生物がヤバすぎる… アフリカで有名な神話って何? 6.5. >なぜ、アジア各国は植民地から独立しようと思った? さて御指摘の植民地は、概ね南アジア~東南アジアにかけてという事になるのでしょうが、現在の国名と旧植民地時代の呼称及びその版図がかなりの部分異なる為、若干の違和感がある点は御了解頂きたいと思います。 2 徳川秀忠(1605-1623) アメリカ独立戦争/wikipedia 中南米の国々が独立 脱植民地化(だつしょくみんちか、英語:Decolonization)とは、植民地が宗主国からの独立を獲得する過程であり、植民地化に対立する概念である。 非植民地化ともいう。. アメリカ合衆国の独立/wikipedia. アフリカは現在でも世界のなかで貧しい地域として知られています。. これまで見てきたように、白人によるアジア侵略は大航海時代にはキリスト教の布教を口実に行われ、18世紀以降は「文明化」という正義の旗印を立てて行われました。 しかし、欧米列強が植民地の争奪に明け暮れた原動力は、本国への富の還元にほかなりません。 植民地について学べるおすすめの本. 「ウチの東インド会社以外から輸入した紅茶は全部密輸扱い。ボッシュートな!」 8 久明親王(1289-1308) 植民地が自らの防衛の費用を負担することは、十分に妥当であると思われた。それは、植民地の自治を犠牲にして、英国議会が新たに税金を徴収することを意味した。 その第一歩として、1733年の糖蜜法に代わって、1764年に砂糖法が制定された。 アメリカ合衆国に限った話ではありませんが。, そうした点や後々の歴史を考えると、果たしてこの国の独立は良いことだったのかなあ……と考えざるを得ない面があります。 イギリスが利権を保ち続けるために 以下に列記してみましょう。, ①元がイギリスから移り住んだ人=同国人であるという意識から、他の国を侵略するときとは心象が違った, ③同じく海を渡るため補給線が非常に重要なのに、なかなかアメリカ大陸側に拠点を作れなかった, ⑤13植民地には共通の首都というべき場所がなく、全ての方面を占領しなければイギリスの勝利にはならなかった, ほかにも細かいところを挙げればまだまだあるかもしれませんが、この辺にしておきましょう。, これはいつ行われたのか? という法律を作ってしまったため、植民地の人々の怒りは頂点に達するのでした。, こっちの意見はロクに聞いてくれない。 を考えたほうがわかりやすいかもしれません。, 上記の通り、そもそもイギリスは財政難に陥っていた頃で、ほかにも不利な要素がたくさんありました。 3 源実朝(1203-1219) (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 2 源頼家(1202-1203) 6.5. 4 徳川家綱(1651-1680) 1773年の茶法に対するボストン茶会事件から対立は激化し、植民地代表は1774年9月、フィラデルフィアで大陸会議を開催(当初は12植民地、後にジョージアが加わり13となる)、イギリスとの通商を断絶する同盟(アソシエイション)結成を決議、独立への気運を高めた。 といっても最終的にアメリカの独立が承認され、イギリス軍が完全に撤退するのは2年後の話なんですけども。, 教科書では「フランス革命の遠因になった」の一言で済まされがちですが、スペインやポルトガルの支配を受けていた中南米の人々が「俺達もやろうぜ!」と独立を意識し始めるようになるのです。, ざっくり年代順にすると、 19世紀までにヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進み、植民地とされていたアフリカ各地で、第二次世界大戦後に独立運動が活発になり、1960年前後に一斉に独立を達成した。 7 徳川家継(1713-1716) アメリカ建国の要因(3)独立革命はなぜ起こったか. Pocket. 13植民地(じゅうさんしょくみんち、英: Thirteen Colonies )とは、イギリス第一次植民地帝国の北米植民地をさす。 1776年の独立宣言、その後のアメリカ独立戦争を経て13植民地はアメリカ合衆国として独立した(建国時の13州は独立十三州とも呼ばれる)。 この「植民地が独立した」という事実は、当事者達だけでなく世界的に影響を与えていくことになります。 教科書では「フランス革命の遠因になった」の一言で済まされてしまっていますが、スペインやポルトガルの支配を受けていた中南米の人々が「俺達もやろうぜ! なぜ13植民地の人々は独立を目指したのかその背景に迫る image by PIXTA / 44041639 17世紀から18世紀にかけて、イギリスは北アメリカの太平洋岸に13の植民地を建設します。 ↓ 14 徳川家茂(1858-1866) 移り住んできた人の多くは家族単位での移民だったので、そもそもまとまっていなかったのです。, これを理解するには、 単行本; 関連する全ての商品を見る Amazonで光弘, 和田の植民地から建国へ 19世紀初頭まで (岩波新書)。アマゾンならポイント還元本が多数。光弘, 和田作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また植民地から建国へ 19世紀初頭まで (岩波新書)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 植民地はなぜ怒ったか 本国のイギリスは植民地で必要な費用は植民地側に負担させようという考えで、1767年にタウンゼント諸法という課税法をアメリカ植民地に押しつけた。 現代の覇権国家・アメリカ合衆国も、旧宗主国から独立した大きなきっかけは税金でした。, アメリカ合衆国が元々イギリスの植民地から始まった国であるということ(もともとは先住民の大地であること)は、おそらく皆さんご存知でしょう。, が、それ以前はいろいろな国が取り合いをしていた地域でした。 「イギリスが負けた理由」 植民地の人々は、自分たちを蚊帳の外に置いた状態で、本国の議会で増税を決められたことに不満が爆発。反発して衝突を起こし、最終的には武力による戦争となりました。 厳しい戦いのなかで、植民地側につく他国の参戦もあり、最終的にイギリスが敗戦。 アメリカ独立戦争の頃と言えば、ただアメリカ独立宣言を出しただけだろうと思っている人もいるかもしれませんね。しかし、アメリカ独立戦争というのは実はだいぶ長く続いた戦いであり、たった13州の植民地が強大な軍事力を持つイギリスから独立しようとした 他の植民地と決定的に違い、新たに移り住んだ人々の土地だったのですね。現地住民を征服したのではなく、白人がたくさんいたのです。, そのためか、他の植民地と比べて税金が低く、イギリス本国内と比べてもかなり優遇されていました。, 「俺達に増税するなら、植民地の奴らにも払わせるのがあたりまえだろ!」 例)帰蝶、織田信長, 1 源頼朝(1192-1199) 世界と日本の植民地について分かる、おすすめの本を2冊紹介します。どちらもマンガで描かれているため、子どもが植民地について学ぶための始めの一歩としても使いやすいのではないでしょうか。 アジアで植民地を持ったのは日本だけで、アジアで植民地にならなかったのは日本とタイだけである。東南アジアの国が次々と欧米の植民地になったにも拘わらず、タイだけが植民地にならなかった理由について考える。 (2) タイの地理的要因 オーストラリアは地理的にアメリカから遠く離れているため、物理的にはアメリカと何のつながりもありませんが、国家形成の過程では、アメリカの独立戦争(アメリカでは独立革命と呼ばれています)の影響を多大に受けています。 まず、アメリカ独立戦争前のアメリカの背景がどのようなものだったかをみてみましょう。 イギリスがアメリカを植民地にしたのは1607年で、最初の植民地はバージニアに建設されました。その後も植民地化が進み、東海岸に13の植民地が成立しました。このようにしてでき … これまた当たり前ですね。, ところが、その後も本国イギリスからは【報告・連絡・相談】なしに13植民地への「税金増えるから」という決定だけが伝えられてきました。, 「せめてこっちの代表を本国の会議に参加させてくれませんかね?」 タイが植民地にならなかった理由について記事は「タイミングが良すぎた」と紹介。タイの左右の国はそれぞれ英国とフランスが植民地にしていたが、間にあったタイは英仏が衝突を避け緩衝地帯として残されたため、植民地にならずにすんだと分析した。 そんな声が高まり、イギリス政府も13植民地への新たな課税を始めます。, 本国と比較すればまだまだ安い税額でしたが、植民地の人々からすると 「アメリカが勝てた理由」 ↑足利義材が改名して復帰 植民地(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、当事国政府の支配下にある領土のことで統治領(とうちりょう)とも呼ばれる。 スポンサーリンク アフリカが植民地にされたのって随分前だけど、エチオピアだけは1940年くらいまで独立を保ってたといいます。何故でしょう?一言でいえば、僻地だからです。意外に思われるかもしれませんが、スエズ運河が開通するまではヨーロッパからも 6 足利義教(1429-1441) この植民地支配に対して、被支配民族が反植民地闘争に立ち上がり、独立を実現してゆき、20世紀後半には植民地はほぼ姿を消した。しかし、一方で新植民地主義という姿に変わって始まった、あらたな抑圧の形態が問題になっている。 4 藤原頼経(1226-1244) 大きな禍根を残した点もありました。, イギリスの支配から脱したことにより、アメリカは当然自分達で政治をやっていくことになったわけですが、奴隷制が廃止されたのはアメリカのほうが30年ほど後になります。, また、西海岸を目指す過程でネイティブアメリカン(アメリカ先住民)への虐殺が頻繁に勃発。 アメリカ合衆国の植民地時代(アメリカがっしゅうこくのしょくみんちじだい、英: Colonial history of the United States )は、ヨーロッパ人による植民地化から始まり、ヨーロッパからの独立のときまでの歴史であり、特に1776年に独立を宣言した13植民地の歴史である 。 LINE. 14 足利義栄(1568-1568) 「沖縄」は日本に併呑された植民地だったと考えれば、沖縄県の翁長雄志前知事が呼んだ「沖縄差別」の構造的な意味が理解されるだろう。 なぜ、いまでも在日米軍の70パーセントが沖縄に集中しているの … 9 守邦親王(1308-1333), 1 足利尊氏(1338-1358) アフリカが植民地にされたのって随分前だけど、エチオピアだけは1940年くらいまで独立を保ってたといいます。何故でしょう?一言でいえば、僻地だからです。意外に思われるかもしれませんが、スエズ運河が開通するまではヨーロッパからも 1)はじめに 2)独立革命までのイギリス植民地の政治形態 (1)イギリスの制度の特異性 (2)植民地総督の立場 (3)植民地議会がもっていた成文 … 6 徳川家宣(1709-1712) (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 意外と古い顔文字の歴史\(^o^)/ 最初はIBMスコットファールマン氏の :-) だった. 9 足利義尚(1474-1489) 12 徳川家慶(1837-1853) なぜ、植民地化を免れることができたのか 独立を守った“現実外交” NHKさかのぼり日本史 外交篇4 幕末へのレビューはまだ登録されていません。あなたが一番乗りのチャンス! 東南アジアの国のほとんどが過去に植民地となった苦い過去を持つが、タイだけは植民地とならず独立を保ち続けた。これはなぜなのだろうか。中国メディアの快資訊は16日、2人の英雄による貢献が主な理 … 東ティモールは、バリ島の東方に位置する小さな国です。今回はそんな東ティモールの歴史について、紀元前〜ポルトガル植民地時代、インドネシア軍の侵略や日本との関わりまでを徹底解説します。有名なコーヒー産業やキリスト教信仰の理由もわかるはずです。 より アメリカ合衆国が元々イギリスの植民地から始まった国であるということ(もともとは先住民の大地であること)は、おそらく皆さんご存知でしょう。 が、それ以前はいろいろな国が取り合いをしていた地域でした。 お隣カナダも同じですね。 最終的に戦争に勝って利権を獲得したのはイギリスで、その頃には新たな問題が発生してしまいます。 当時のイギリスは北米大陸だけでなく、インド植民地化の戦争をしていたり、スペイ … 植民地の人々は、自分たちを蚊帳の外に置いた状態で、本国の議会で増税を決められたことに不満が爆発。反発して衝突を起こし、最終的には武力による戦争となりました。 厳しい戦いのなかで、植民地側につく他国の参戦もあり、最終的にイギリスが敗戦。 植民地(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、当事国政府の支配下にある領土のことで統治領(とうちりょう)とも呼ばれる。. 10 足利義材(1490-1493) 生活に欠かせないものをべらぼうな価格で買わされる。, そしてボストン港に運び込まれた紅茶の箱をちぎっては投げちぎっては投げ、「見ろ!港がティーポットのようだ!!」と叫びながら、見事、本国へケンカを売ったのでした。 それまでもヨーロッパからの入植者達がアッチコッチでやっていたことではありますが、独立してからは特に顕著です。, そもそも初代大統領ジョージ・ワシントンが「先住民を根絶やしにしろ」とか言ってますからね。, 時代とはいえ、国のトップがこの有様では、当時の白人がいかに偏見の塊であったか窺えるでしょう。, 教科書では「強制移住法で先住民がカワイソウな目に遭いました」くらいの扱いですっ飛ばされていますが、詳細を調べれば調べるほどアメリカという国が嫌いになるような事実がゴロゴロ出てきます。, 歴史を調べていて「(゚Д゚)ハァ?」と言いたくなるようなことは珍しくありませんけども、人種差別の類はその最たるものですね。 欧米の植民地政策と日本の植民地政策は全く別物。外地と当時呼んでいました。 井上 政典 2018/11/09(金) コラム アメリカ独立戦争の頃と言えば、ただアメリカ独立宣言を出しただけだろうと思っている人もいるかもしれませんね。しかし、アメリカ独立戦争というのは実はだいぶ長く続いた戦いであり、たった13州の植民地が強大な軍事力を持つイギリスから独立しようとした 「今まで一応、交渉も続けてたけど、もうダメだ。あいつら、話が通じねえ」 お隣カナダも同じですね。, 最終的に戦争に勝って利権を獲得したのはイギリスで、その頃には新たな問題が発生してしまいます。, 当時のイギリスは北米大陸だけでなく、インド植民地化の戦争をしていたり、スペインとも揉めたりしていて、複数のドンパチを立て続け&並行して行っていたのです。 と諦めたからです。, 独立戦争の戦闘そのものは一進一退という状況が長く続きましたが、1781年にヨークタウンの戦いでイギリス軍が負けたことにより、ようやく収束します。 当時は領土を広げることで強大な国家を作ろうとする帝国主義の全盛期で、アフリカはその標的にされたのです。. 13 徳川家定(1853-1858) 植民地の経済動向は宗主国の経済的利益に直結する。ひいてはそれが自国の政治的安定にもつながっていたからだ。つまり、「インフラを整え、経済成長を促す植民地支配」は、19世紀末から20世紀にかけては普遍的な植民地支配の形態だったのだ。 7 惟康親王(1266-1289) 1)はじめに 2)独立革命までのイギリス植民地の政治形態 (1)イギリスの制度の特異性 (2)植民地総督の立場 (3)植民地議会がもっていた成文 … アメリカ独立戦争におけるフランス(アメリカどくりつせんそうにおけるフランス)では、アメリカ独立戦争前後のフランス外交の変遷と国内への影響について述べる。 6 宗尊親王(1252-1266) 7 足利義勝(1442-1443) この原因の1つになったのが、18世紀から20世紀初頭にかけて行われたヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地分割でした。. 13 足利義輝(1547-1565) 5 足利義量(1423-1425) 8 徳川吉宗(1716-1745) 単なる嗜好の問題ではなく、上下水道の整っていない時代ですから、その殺菌作用は生活する上で欠かせない。, ところが、です。 4 足利義持(1395-1423) アメリカがイギリスから独立 り独立戦争が始まり、和解のない内戦と なったが、植民地側が勝利をおさめた。 独立後、1787年には、人民主権と三権分立、 連邦制をとる合衆国憲法を制定した。 ①なぜアメリカの独立は“革命”なのだ ろ … 歴史 ラテンアメリカの歴史は、「先コロンブス時代、植民地時代、独立国家の時代」に大別される。1492年のコロンブスの到達以後が「植民地時代」であり、1810年に始まる独立戦争を経て一斉に独立する1820年代以降が「独立国家の時代」といえる。 自由の国アメリカ。資本主義の第一国として経済的にも文化的にもトップを走り続ける大国です。しかし、その独立には壮絶なドラマがありました。明るいイメージの裏側で現在も続く人種差別や移民問題……。問題の根幹につながるアメリカ独立戦争の流れや原因をわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本もご紹介するので、ぜひチェックしてください。, 1775年に始まったアメリカ独立戦争。アメリカにあるイギリス領となっていた植民地と、イギリス本国との争いです。, もともと、アメリカはひとつの国家としてまとまっていたわけではなく、そこに暮らしているのは先住民のインディアンたちでした。, ところが1400年代なかばの大航海時代の幕開けとともに、ヨーロッパの人々が次々にアメリカ大陸に押し寄せてきたのです。幾度の争いを経て、大陸の大半を統治したのがイギリスでした。アメリカを13の植民地として支配します。, ところが当時のイギリスは、戦争には強かったものの、資金面ではかなり苦しい状況にありました。そして植民地に対してさまざまな課税を要求するようになったのです。植民地の人々は、自分たちを蚊帳の外に置いた状態で、本国の議会で増税を決められたことに不満が爆発。反発して衝突を起こし、最終的には武力による戦争となりました。, 厳しい戦いのなかで、植民地側につく他国の参戦もあり、最終的にイギリスが敗戦。1783年の「パリ条約」で正式にアメリカの独立が認められることになります。, 資金繰りに困ったイギリスが、植民地の人々に対しておこなった税金徴収が主な引き金です。, 1764年に施行された「砂糖法」は、糖蜜1ガロンあたり3ペンスの税が課されるもの。前身にあたる「糖蜜法」よりも金額的には少なくなったものの、対象がワインやコーヒー、衣類などにも広げられました。, また1765年に発表された「印紙法」は、すべての印刷物にイギリスの印紙を貼るという、とんでもないもの。当然インターネットなど無い時代で、人々の情報源は紙です。新聞やパンフレット、証書やトランプのカードなども該当します。これには植民地の人々の不満が爆発し、各地で反対デモが起きたため、撤廃に追い込まれました。, また1667年には、同じく税収増を目的とした5つの法令からなる「タウンゼンド諸法」が施行。ガラスや鉛などにも税金を課せられましたが、これも反対運動が盛り上がり、1770年に撤廃されます。, 1773年には、イギリスの東インド会社に、植民地での茶の販売独占権が与えられます。これは、ボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃し、茶箱を海に投げ捨てる「ボストン茶会事件」を引き起こしました。, 植民地の人々が怒っていたのは、これら重要なことを取り決めるイギリス本国の議会に、参加できなかったことです。パトリック・ヘンリーの「代表なくして課税なし」という有名な格言も誕生し、両者の対立は明確になっていきました。, 対立していたイギリス本国と13植民地ですが、当初植民地側は和解の道を探っていました。1774年には、各植民地から代表者が参加する「大陸会議」を開き、状況の好転を探ります。, しかしイギリスは応じません。1775年、レキシントンとコンコードに植民地側の武器庫があるという情報手に入れ、それを接収しようと試みます。しかし待ち伏せていた民兵によって返り討ちに合い、多くの死者を出しました。, これを「レキシントン・コンコードの戦い」といい、本格的な独立戦争の幕開けとなります。, この直後、植民地側は「ボストン包囲戦」を決行。ボストンを包囲してイギリス軍の動きを封じ込め、ダメージを与えることに成功しました。またこれを機に植民地の住民たちの結束が強まり、数ヶ月後には軍としての総司令官が誕生します。これが初代大統領となる、ジョージ・ワシントンです。, イギリス側も抵抗をみせますがボストン包囲を解くことはできず、ついにボストン市を明け渡す旨の文書が送ることとなりました。その後他国も次々に植民地側について参戦し、13植民地軍を勝利へと導くことになります。, 常識的に考えれば、植民地側がイギリスとの戦争に勝つ可能性はかなり低かったはずです。兵士の教育、訓練、武器、経験などを鑑みても、イギリス側が圧倒的に有利。しかし彼らには思わぬ弱点がありました。, まずアメリカには、そもそもイギリスから移り住んだ人々もいるのです。同国人とも戦うことになり、侵略する際にある種の迷いが生じます。また13の植民地は、それぞれ独自に発展を遂げていて、戦法もさまざまでした。ひとつの国を相手にしている場合は本部を制圧すれば勝利宣言ができるものの、各地域で勝利をしないといけない状況だったのです。, そこに、フランスが参戦してきました。1778年に「サラトガの戦い」で植民地側が勝利したことをきっかけに、ここぞとばかりに大陸軍についたのです。同盟条約を結ぶと、翌1779年にはフランスの同盟国としてスペインも参戦。1780年にはオランダも参戦し、財政的に援助します。, フランスが植民地側についたことをきっかけにイギリスは一気に劣勢に持ち込まれ、1783年に休戦協定を結ぶこととなるのです。, アメリカ独立戦争が日本語で詳しく書かれている書籍はあまりありませんが、本書は戦争の発端から引き込まれる文体で綴られています。, 読み物としても面白く、さまざまな国の人間模様や思惑が絡み合ったストーリーにページをめくる手が止まりません。, 独立戦争の主要因となる「フレンチ・インディアン戦争」についても詳細に記されているので、13植民地が独立するまでの流れを深く理解することができるでしょう。, 強国だったイギリスと、まとまりのない植民地住民の戦いだったアメリカ独立戦争。彼らはなぜ勝利することができたのでしょうか。, そこには、緻密な頭脳戦がありました。本書は、アメリカの初代大統領となるジョージ・ワシントンの資質に迫った一冊です。, 武力でまともに戦っても、武器も経験も上のイギリスに勝つことはできません。ただ植民地側は独自の宣伝力を使い、「正義」を掲げて人種の壁を超えて一致団結することに成功しました。, ジョージ・ワシントンの人を動かす統率力と実行力は、現代のビジネスシーンにも役立つ哲学ではないでしょうか。, 1775年に勃発したアメリカ独立戦争から、1861年に起こった南北戦争までを漫画で描いた一冊です。親しみやすいイラストのため、抵抗なく読み進めることができるでしょう。, 「人民の、人民による、人民のための政治」というリンカーンの名言は、どんな意味があるのでしょうか。独立戦争からの流れを理解すると、この言葉がいかにして生まれたのかよくわかるはずです。, 植民地から州となり、まとまっていくアメリカ。しかし正義の名のもとにひとつになればよかったものの、さまざまな小競り合いが生じていまうのです。, 我々日本人は、人種差別や移民問題に疎いところがありますが、アメリカ独立戦争の歴史を知ると、理想論だけでは解決できない問題の根深さがわかるでしょう。同時に違う価値観を認めて人々が手を取り合うことの大切さも痛感できます。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。. ※代理:足利義持(1425-1428) なぜ13植民地の人々は独立を目指したのかその背景に迫る image by PIXTA / 44041639 17世紀から18世紀にかけて、イギリスは北アメリカの太平洋岸に13の植民地を建設します。 と打診しても、イギリス政府は聞く耳を持ってくれません。, 植民地側の頑健な抵抗により、いくつかの税金は廃止されましたが、紅茶だけはずっと高額な税金が掛けられました。, 当時の植民地は、イギリスから移ってきたばかりの人たちが数多く住んでおりました。 12 足利義晴(1522-1547) ※実際は「ボストン港をティーポットにしてやる!」です、似たようなもんですが, 実は以前にもボストンでは、イギリス兵が民間人を射殺するという事件が起きております。, 土地柄、反英感情が強くなっていたのでしょう。 一度は話し合いで解決しようとしながら、ものの見事に決裂し、開戦に至りました。, ちなみに当時植民地側にはロクな軍隊がいません。 15 徳川慶喜(1867-1868), 本サイトはリンク報告不要です。